2011年 01月 26日
シャウナのわかりやすい日本史解説 ~黒船来航前編~ |
いらっしゃいまほ。
テストって体力使いますよね・・・
お昼に受けて、それなりの手応えとともに帰還し、ちょっと寝ようとシャワー浴びてお布団でぬくぬくしてたら・・・
気がついたら4時間たってました・・・
寝すぎ・・・
はい・・・解説しますよー。
3月までになんとか終わらせねば・・・
ってなわけで、シャウナのわかりやすい日本史解説、黒船前編でございます。
なんだよ後編もやれよって思うかもしれませんが・・・
細かく色々言いたかったので、前編書くだけで1時間半かかりました・・・
文章量を見てくれればわかっていただけるはず・・・
まあ、きっと今日のは物語チックで面白いはずですので、読んでみてくださいな。
人物が青地、出来事が赤字、セリフが緑で記述してます なんでセリフがあるんだ・・・
では、スタート。
はい・・・ではおさらい・・・
前回、水野忠邦って人が天保の改革を失敗したところです。
で、続き・・・
その後任で今度出てくるのは、阿部正弘って人です。
水野さんの後任でもあるので・・・とってもすごい人なんですけど・・・
まあ、運がない・・・
自分も安政の改革を進めようとした途端に、来ちゃうんですね・・・
黒船が・・・ペリーが・・・
1853年 ペリー来航です。
イギリスで産業革命が起きて既に150年。
資本主義により産業が成長したところへ産業革命が後押しして、世界は一気に帝国主義(ようは、侵略して自国の領土をもっと広げろ!自国を世界一の大国に!!みたいな考え方です)となったアメリカは当時アヘン戦争でボロボロになっていた中国への侵略を目的に、日本にその通過基地というか外交拠点というかそんなものが欲しかったわけです。
それに当時はアメリカも捕鯨をしていましたので、その捕鯨基地として日本は最適の場所だったのです。
なので「港貸してくれない?」って言いに来たんですね・・・まあ、「開国シッテクダサイヨー」と・・・
でも・・・なんでペリーはいきなり軍艦を4隻も連れて日本までやってきたのか? そんな威圧的なことしなくてももっと穏便に来ればいいじゃないか?
そう思う方もいらっしゃるでしょうが・・・
実はそこには日本のとある事情が関与していたのです。
実は、日本に開国を迫っていたのはアメリカだけではないのです。
少し歴史をさかのぼると・・・
1792年・・・ペリーが来るより61年も前の事・・・
とある日本人が嵐にあって、漂流し・・・行き着いた先がロシア・・・なんて事件がありました。
その人の名前は大黒屋光太夫っていうんですが・・・彼は中々帰国することを許されなかったんですね。そこで奔走したのがロシア人のキリル・ラクスマンという学者。彼はロシア帝国の女帝エカチェリーナ2世に頼み込んで、大黒屋の帰国許可をもらったわけですが・・・なぜ、ラクスマンはそこまでしたのか・・・当然、大黒屋を助け、日本に送り届ける目的もあったのですが、心の中では「これをきっかけに日本と交友し、貿易を・・・」なんて考えていたはずです。
ラクスマンは北海道にそうやって大黒屋を連れていき、ついでに外交もしようとおもったのですが・・・残念ながら日本は幕府の国・・・
北海道の松前藩の領主から「悪いんだけど・・・日本って将軍様が許可してくれないとできないのよね・・・」って言われ、仕方なく帰っていくことに・・・
しかし、ロシア諦めない。
1804年・・・ペリーが来るより、49年前・・・
今度はロシアの外交官 レザノフが来て、松前藩に「貿易したんだけど・・・」って言います・・・
一応松前藩も幕府に聞くのですが・・・幕府は当然”NO”と言いたいわけですね・・・
しかし、無碍に断ったらロシアから何をされるか分かったものではありません。なので、幕府は無理難題・・・いわゆるかぐや姫戦法を取ることにします。
幕府「えっとね・・・日本で外交する港は・・・長崎って決まってるんだよ・・・だから、長崎まで行ってくれないと判断できないんだけど~」はい・・・長崎・・・それは日本の南の端・・・九州です。
ロシアから行くには北海道まで来て、そこから日本海を通り、東シナ海ルートへと抜けて後悔しなければなりません・・・しかも日本には一度も寄港することなく・・・
もちろんそんなのは不可能・・・
かと思いきや!!
そう・・・時代は産業革命・・・蒸気船を持ってるロシアにはなんともないことなんです。
すぐに長崎まで行っちゃって「来ましたよー!!」ってんだからそりゃもうびっくり。
これには幕府も困って、どうしようどうしよう来ちゃったよ・・・って悩むんですが・・・日本は特定の国以外と外交はしない!という”朝廷歴世の法”ってのがありましたので、結局失敗に終わります。
しかし・・・
1808年・・・ペリーが来るよりも45年前のこと・・・
日本でとんでもない事件が起こります。やらかしてくれたのはイギリスです。
その名はフェートン号事件・・・
当時、オランダはフランスに占領されていたのですが・・・そのフランスの最大の敵対国家がそう・・・イギリスです。
なので、イギリスはオランダの船を襲ってその物品をどんどん盗む海賊行為・・・要は拿捕を許可していたんですね。
そして事件は起こった・・・
イギリスの軍艦フェートン号に襲われたオランダの商船は、イギリスの入ってこれない港、長崎の出島へと非難するわけです。
しかしながら、それを黙って見過ごすわけにはいかないのがイギリス・・・そこでフェートン号は国旗をオランダの国旗につけかえ、日本を騙して出島に入ってきちゃいます。もちろん国旗はオランダですが、新しい商船だと思って、日本が受け入れると・・・
一転、フェートン号はイギリスの国旗を掲げ、人質をとって、水と食料を日本に対して要求します。
もちろん日本は激怒。長崎奉行はすぐに「あの詐欺師でどうしようもないクソ船をすぐに焼き払え!!」と命令するのですが・・・日本が平和になって既に200年が過ぎようとしているこのころ・・・
フェートン号を焼き討ちできるほどの兵士は長崎に居なく、仕方なく、食料と水を渡して人質を開放してもらい・・・フェートン号には穏便に帰ってもらうことにしたのです。
これを受けて幕府は「二度とあんな馬鹿げたことをやらせるな!!」と激怒。
1825年。 異国船打払令 を発布します。
これは、もうオランダとか日本とこういうの有る国以外の船が日本に少しでも近づいたら有無をいわさずいかなる事情があろうとも、相手の言い分も聞かないで全てぶっ飛ばせ!
という法律・・・まあ、フェートン号のことがあるので、多少暴力的かもしれませんが、仕方のないことだったんです。
ですが・・・
また、問題が起こっちゃうんです。
1837年のこと・・・
日本の漁師が遭難してこまっているところをたまたま近くを通りがかったアメリカの商業船 モリソン号 が助けてあげて「いいよ、日本まで送ってあげる」って言うんですね。
まあ、もちろん裏には「ついでに日本と交友を結んで貿易を・・・」なんて考えていたのですが・・・
しかし、いざ日本に近づくと・・・
「おーい。あんたんとこの国民を助けてあげたよー」って近づくと・・・
いきなり砲撃されます。有無をいわさず、焼き払います。 なぎはらええええええ!!!!!!!!!みたいな感じで・・・
もうわけもわからずモリソン号は退却・・・これが後にいう、モリソン号事件です。
まあ、日本としても当時はアメリカなんて知りませんから「あの旗はどこの国のだ!?青、紺色、白・・・イギリスかぁあああ!!!!!!!!打ち払えええええええええええ!!!!!!!!焼き払え!!!!!!!!燃やし尽くせ!!!!!!!!」みたいなテンションだったわけですが・・・
ただ、この一年後にこの船の所属と目的が明らかになり・・・幕府は「なんてことしたんだ!」って言うわけですけど「打ち払えっていったのあんたらだろ!!」って当然にことを言われ「・・・ごめんなさい」って言うしか無く・・・
異国船打払令に対する反発は強まったんですが・・・
まあ、そんな意見にもめげず、日本は異国船をバンバン砲撃してたんですけど・・・
1842年・・・日本は衝撃的な事件を耳にします。
「そんな馬鹿な・・・世界の中心であり、太陽のような国・・・世界最強の大国・・・清が・・・イギリスに負けただとおおおおおおお!!!!!!!?」そう・・・1840~1842年の間でアヘン戦争があり・・・世界最強と歌われていた大国、清(中国)がイギリスみたいなチンケな島国に負けてしまい不平等条約を結ばされてしまったんですね。
これは不味いと幕府。日本はサムライの国、最強の国・・・その定義が揺らいだのです・・・ヤバい・・・戦争したら間違いなく負ける・・・と・・・
いままでみたいに有無をいわさず撃沈してたら、相手にとって絶好の宣戦布告材料を与えてしまいます。
これはヤバい・・・
そう考えた幕府は、遭難した船に関しては薪と水を与えてあげなさいと同年「薪水給与令」を発布します。
しかし!アメリカはそんなこと知る由もない!!
モリソン号が有無をいわさず撃沈されそうになったんだから、もう日本に対する評価は最悪です。
「ヤベェぞあの国・・・どこの船だろうが撃沈しようとする野蛮国・・・いや・・・恐ろしい国だ・・・ならこっちも本気で行かなきゃ殺される・・・」
そうなればもう、軍艦4隻で行くしかないじゃないですか・・・
そしてペリー率いる軍艦4隻は浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来て、「アメリカ大統領の親書モッテキタ!!開国シッテクダサイヨー」って言うんですね。
もちろん日本としては開国したくないのですが、返事を先延ばしにするとずっと黒船が浦賀に居ついてしまってこまるわけです。
何故なら、浦賀は江戸最大の貿易港。全国から集めた年貢とか各地の名産品とか全部全部浦賀から江戸に運ぶわけです。
そんな港に黒船がいたら、交流がストップして江戸の市民が餓死してしまいます。
でも、いきなり「嫌です」って言えば、黒船の咆哮(大砲73門)で木と紙でできた江戸の町なんてたちまち火の海に・・・
しかも、アメリカは日本に許可無く測量までしたりしちゃって・・・このままじゃ江戸城まで火の海に・・・
しかし、そこはのらりくらりが得意な日本です。
幕府「えっとね・・・悪いんだけど・・・今、最高権力者の将軍が病気(本当)なんだよ・・・だから悪いけど、治ったら聞くから、一年後にしてくんね?」こんなこと言われたら、アメリカだって「・・・・シカタナイデスネー」って帰るしかないわけです。
まあ、日本からすれば「1年も覚えてねーだろ・・・」って気持ちもあったんですけど・・・
こうしてペリーは一度滞在先の香港へと軍艦を率いて帰っていくのでした・・・
と、今日はここまで・・・
さぁて、一年後・・・
果たしてペリーは忘れてくれるのか!? <ソンナワケネーダロー
ではシャウナのわかりやすい日本史解説・・・
本日はこの辺で
ありがとうございました。
テストって体力使いますよね・・・
お昼に受けて、それなりの手応えとともに帰還し、ちょっと寝ようとシャワー浴びてお布団でぬくぬくしてたら・・・
気がついたら4時間たってました・・・
寝すぎ・・・
はい・・・解説しますよー。
3月までになんとか終わらせねば・・・
ってなわけで、シャウナのわかりやすい日本史解説、黒船前編でございます。
なんだよ後編もやれよって思うかもしれませんが・・・
細かく色々言いたかったので、前編書くだけで1時間半かかりました・・・
文章量を見てくれればわかっていただけるはず・・・
まあ、きっと今日のは物語チックで面白いはずですので、読んでみてくださいな。
人物が青地、出来事が赤字、セリフが緑で記述してます なんでセリフがあるんだ・・・
では、スタート。
はい・・・ではおさらい・・・
前回、水野忠邦って人が天保の改革を失敗したところです。
で、続き・・・
その後任で今度出てくるのは、阿部正弘って人です。
水野さんの後任でもあるので・・・とってもすごい人なんですけど・・・
まあ、運がない・・・
自分も安政の改革を進めようとした途端に、来ちゃうんですね・・・
黒船が・・・ペリーが・・・
1853年 ペリー来航です。
イギリスで産業革命が起きて既に150年。
資本主義により産業が成長したところへ産業革命が後押しして、世界は一気に帝国主義(ようは、侵略して自国の領土をもっと広げろ!自国を世界一の大国に!!みたいな考え方です)となったアメリカは当時アヘン戦争でボロボロになっていた中国への侵略を目的に、日本にその通過基地というか外交拠点というかそんなものが欲しかったわけです。
それに当時はアメリカも捕鯨をしていましたので、その捕鯨基地として日本は最適の場所だったのです。
なので「港貸してくれない?」って言いに来たんですね・・・まあ、「開国シッテクダサイヨー」と・・・
でも・・・なんでペリーはいきなり軍艦を4隻も連れて日本までやってきたのか? そんな威圧的なことしなくてももっと穏便に来ればいいじゃないか?
そう思う方もいらっしゃるでしょうが・・・
実はそこには日本のとある事情が関与していたのです。
実は、日本に開国を迫っていたのはアメリカだけではないのです。
少し歴史をさかのぼると・・・
1792年・・・ペリーが来るより61年も前の事・・・
とある日本人が嵐にあって、漂流し・・・行き着いた先がロシア・・・なんて事件がありました。
その人の名前は大黒屋光太夫っていうんですが・・・彼は中々帰国することを許されなかったんですね。そこで奔走したのがロシア人のキリル・ラクスマンという学者。彼はロシア帝国の女帝エカチェリーナ2世に頼み込んで、大黒屋の帰国許可をもらったわけですが・・・なぜ、ラクスマンはそこまでしたのか・・・当然、大黒屋を助け、日本に送り届ける目的もあったのですが、心の中では「これをきっかけに日本と交友し、貿易を・・・」なんて考えていたはずです。
ラクスマンは北海道にそうやって大黒屋を連れていき、ついでに外交もしようとおもったのですが・・・残念ながら日本は幕府の国・・・
北海道の松前藩の領主から「悪いんだけど・・・日本って将軍様が許可してくれないとできないのよね・・・」って言われ、仕方なく帰っていくことに・・・
しかし、ロシア諦めない。
1804年・・・ペリーが来るより、49年前・・・
今度はロシアの外交官 レザノフが来て、松前藩に「貿易したんだけど・・・」って言います・・・
一応松前藩も幕府に聞くのですが・・・幕府は当然”NO”と言いたいわけですね・・・
しかし、無碍に断ったらロシアから何をされるか分かったものではありません。なので、幕府は無理難題・・・いわゆるかぐや姫戦法を取ることにします。
幕府「えっとね・・・日本で外交する港は・・・長崎って決まってるんだよ・・・だから、長崎まで行ってくれないと判断できないんだけど~」はい・・・長崎・・・それは日本の南の端・・・九州です。
ロシアから行くには北海道まで来て、そこから日本海を通り、東シナ海ルートへと抜けて後悔しなければなりません・・・しかも日本には一度も寄港することなく・・・
もちろんそんなのは不可能・・・
かと思いきや!!
そう・・・時代は産業革命・・・蒸気船を持ってるロシアにはなんともないことなんです。
すぐに長崎まで行っちゃって「来ましたよー!!」ってんだからそりゃもうびっくり。
これには幕府も困って、どうしようどうしよう来ちゃったよ・・・って悩むんですが・・・日本は特定の国以外と外交はしない!という”朝廷歴世の法”ってのがありましたので、結局失敗に終わります。
しかし・・・
1808年・・・ペリーが来るよりも45年前のこと・・・
日本でとんでもない事件が起こります。やらかしてくれたのはイギリスです。
その名はフェートン号事件・・・
当時、オランダはフランスに占領されていたのですが・・・そのフランスの最大の敵対国家がそう・・・イギリスです。
なので、イギリスはオランダの船を襲ってその物品をどんどん盗む海賊行為・・・要は拿捕を許可していたんですね。
そして事件は起こった・・・
イギリスの軍艦フェートン号に襲われたオランダの商船は、イギリスの入ってこれない港、長崎の出島へと非難するわけです。
しかしながら、それを黙って見過ごすわけにはいかないのがイギリス・・・そこでフェートン号は国旗をオランダの国旗につけかえ、日本を騙して出島に入ってきちゃいます。もちろん国旗はオランダですが、新しい商船だと思って、日本が受け入れると・・・
一転、フェートン号はイギリスの国旗を掲げ、人質をとって、水と食料を日本に対して要求します。
もちろん日本は激怒。長崎奉行はすぐに「あの詐欺師でどうしようもないクソ船をすぐに焼き払え!!」と命令するのですが・・・日本が平和になって既に200年が過ぎようとしているこのころ・・・
フェートン号を焼き討ちできるほどの兵士は長崎に居なく、仕方なく、食料と水を渡して人質を開放してもらい・・・フェートン号には穏便に帰ってもらうことにしたのです。
これを受けて幕府は「二度とあんな馬鹿げたことをやらせるな!!」と激怒。
1825年。 異国船打払令 を発布します。
これは、もうオランダとか日本とこういうの有る国以外の船が日本に少しでも近づいたら有無をいわさずいかなる事情があろうとも、相手の言い分も聞かないで全てぶっ飛ばせ!
という法律・・・まあ、フェートン号のことがあるので、多少暴力的かもしれませんが、仕方のないことだったんです。
ですが・・・
また、問題が起こっちゃうんです。
1837年のこと・・・
日本の漁師が遭難してこまっているところをたまたま近くを通りがかったアメリカの商業船 モリソン号 が助けてあげて「いいよ、日本まで送ってあげる」って言うんですね。
まあ、もちろん裏には「ついでに日本と交友を結んで貿易を・・・」なんて考えていたのですが・・・
しかし、いざ日本に近づくと・・・
「おーい。あんたんとこの国民を助けてあげたよー」って近づくと・・・
いきなり砲撃されます。有無をいわさず、焼き払います。 なぎはらええええええ!!!!!!!!!みたいな感じで・・・
もうわけもわからずモリソン号は退却・・・これが後にいう、モリソン号事件です。
まあ、日本としても当時はアメリカなんて知りませんから「あの旗はどこの国のだ!?青、紺色、白・・・イギリスかぁあああ!!!!!!!!打ち払えええええええええええ!!!!!!!!焼き払え!!!!!!!!燃やし尽くせ!!!!!!!!」みたいなテンションだったわけですが・・・
ただ、この一年後にこの船の所属と目的が明らかになり・・・幕府は「なんてことしたんだ!」って言うわけですけど「打ち払えっていったのあんたらだろ!!」って当然にことを言われ「・・・ごめんなさい」って言うしか無く・・・
異国船打払令に対する反発は強まったんですが・・・
まあ、そんな意見にもめげず、日本は異国船をバンバン砲撃してたんですけど・・・
1842年・・・日本は衝撃的な事件を耳にします。
「そんな馬鹿な・・・世界の中心であり、太陽のような国・・・世界最強の大国・・・清が・・・イギリスに負けただとおおおおおおお!!!!!!!?」そう・・・1840~1842年の間でアヘン戦争があり・・・世界最強と歌われていた大国、清(中国)がイギリスみたいなチンケな島国に負けてしまい不平等条約を結ばされてしまったんですね。
これは不味いと幕府。日本はサムライの国、最強の国・・・その定義が揺らいだのです・・・ヤバい・・・戦争したら間違いなく負ける・・・と・・・
いままでみたいに有無をいわさず撃沈してたら、相手にとって絶好の宣戦布告材料を与えてしまいます。
これはヤバい・・・
そう考えた幕府は、遭難した船に関しては薪と水を与えてあげなさいと同年「薪水給与令」を発布します。
しかし!アメリカはそんなこと知る由もない!!
モリソン号が有無をいわさず撃沈されそうになったんだから、もう日本に対する評価は最悪です。
「ヤベェぞあの国・・・どこの船だろうが撃沈しようとする野蛮国・・・いや・・・恐ろしい国だ・・・ならこっちも本気で行かなきゃ殺される・・・」
そうなればもう、軍艦4隻で行くしかないじゃないですか・・・
そしてペリー率いる軍艦4隻は浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来て、「アメリカ大統領の親書モッテキタ!!開国シッテクダサイヨー」って言うんですね。
もちろん日本としては開国したくないのですが、返事を先延ばしにするとずっと黒船が浦賀に居ついてしまってこまるわけです。
何故なら、浦賀は江戸最大の貿易港。全国から集めた年貢とか各地の名産品とか全部全部浦賀から江戸に運ぶわけです。
そんな港に黒船がいたら、交流がストップして江戸の市民が餓死してしまいます。
でも、いきなり「嫌です」って言えば、黒船の咆哮(大砲73門)で木と紙でできた江戸の町なんてたちまち火の海に・・・
しかも、アメリカは日本に許可無く測量までしたりしちゃって・・・このままじゃ江戸城まで火の海に・・・
しかし、そこはのらりくらりが得意な日本です。
幕府「えっとね・・・悪いんだけど・・・今、最高権力者の将軍が病気(本当)なんだよ・・・だから悪いけど、治ったら聞くから、一年後にしてくんね?」こんなこと言われたら、アメリカだって「・・・・シカタナイデスネー」って帰るしかないわけです。
まあ、日本からすれば「1年も覚えてねーだろ・・・」って気持ちもあったんですけど・・・
こうしてペリーは一度滞在先の香港へと軍艦を率いて帰っていくのでした・・・
と、今日はここまで・・・
さぁて、一年後・・・
果たしてペリーは忘れてくれるのか!? <ソンナワケネーダロー
ではシャウナのわかりやすい日本史解説・・・
本日はこの辺で
ありがとうございました。
by shauna-crown
| 2011-01-26 02:43
| 各種解説
|
Comments(2)
Commented
by
broken-range at 2011-01-26 05:12
やばい!!めっちゃ面白いこの解説講座wwww!!
いや~長いどころか、むしろ短いと感じてしまいましたよ! 学校の教科書がこんな感じだったら、もっと勉強できるのに……。
そしてペリーさんと言えば、「ギャグ漫画日和」を思い出してしまうwww
僕は受験関係ないですけど、続くも楽しみにしてますー。
では。
いや~長いどころか、むしろ短いと感じてしまいましたよ! 学校の教科書がこんな感じだったら、もっと勉強できるのに……。
そしてペリーさんと言えば、「ギャグ漫画日和」を思い出してしまうwww
僕は受験関係ないですけど、続くも楽しみにしてますー。
では。
0
Commented
by
shauna-crown at 2011-01-27 02:28
>月夜見様
ありがとうございます。
いやぁ・・・おもしろおかしく書いてるつもりなんですが、後醍醐天皇の「改革ウィッシュ」以来どうにもアイデアが出てこなかったんですが、楽しんでいただけたようでなにより・・・
そして私はギャグマンガ日和だとペリーよりもハリスを思い出します。
本当に腹筋が崩壊するぐらい笑った。
では。
ありがとうございます。
いやぁ・・・おもしろおかしく書いてるつもりなんですが、後醍醐天皇の「改革ウィッシュ」以来どうにもアイデアが出てこなかったんですが、楽しんでいただけたようでなにより・・・
そして私はギャグマンガ日和だとペリーよりもハリスを思い出します。
本当に腹筋が崩壊するぐらい笑った。
では。